札幌高等裁判所函館支部 昭和25年(う)192号 判決
原判決は罪となるべき事実として、「被告人は田嶋俊次からたのまれて、同人が法定の除外事由がないのに営利の目的で昭和二十三年九月上旬頃函館市湯の川町ニコニコ旅館において、東清勝に対し、炭酸ソーダ(洗ソーダ)一万三千百二十五瓩を所定の販売業者販売価格の統制額より金五十五万七千八百十二円五十銭を超過する代金八十四万円で販売した際、その頃同市で右取引の斡旋をして、田嶋俊次の前示販売行為を容易ならしめ以て之が幇助をしたものである。」と認定しているのである。本件取引物件が炭酸ソーダであることは証拠により疑はない。しかしながら、原判決が右の事実を認定する資料として掲げた証拠を見ると、被告人を始め本件関係人が取引をし、又は、斡旋をした物品は、終始洗濯ソーダであるとしてなされてゐるのであて、その間にかつて本件物件が炭酸ソーダ又は洗ソーダであるという事情は暗黙の間にさへ表はれていないのであつて、このことは原判決挙示の証拠を外にして一件記録及び証拠によるも尚且然りと認めざるを得ない情況にある。右のように関係人の間において洗濯ソーダとして取引又は斡旋せられたとすれば、然らば外に被告人が本件物件は実質は炭酸ソーダ又は洗ソーダであるということを、少くとも未必的にでも認識していた事情が窺はれる資料があるかというに、原判決はこの点について、特に山口武に対する証人尋問調書と送状とを引いて、これが認められると説明しているけれども、よく考えて見ると山口武は本件取引物件の製造元であつて、同人がこの品物の性質を知つているのは当然の話であるが、同人は元来被告人と深い面識があつたわけでもなく、同人の証言をしさいに検討しても被告人の心理に属する前記認識の点を推量し得るような事項は窺ひ得ないし、又同人の証言自体も決して本件が炭酸ソーダ或は洗ソーダであるとは云つていないのであつて、却つて同人自身も洗ソーダ又は洗ひソーダと思つて売つたものであると供述しているのであるから、尚更この証言が被告人の認識の点を証明する資料となる価値は乏しいといはなければならない。又送状は直接荷送人日本化学興業株式会社から荷受人後藤定呉に対するものであつて、被告人の関与しない事項に属し、これが荷送人又は荷受人の本件取引物件の性質に関する認識の点を立証する一資料たり得るとするのは格別、荷の発送受取に全然関与しない被告人の認識の点を立証する資料となる価値は極めて乏しい。又原判決が一般的証拠として掲げたもののうち倉庫原票は、日本通運株式会社函館支店臨港倉庫発行にかかるもので、保管品目は「洗濯ソーダ」と記載せられてあるし、又油量配給公団函館支所作成の分析結果報告書は本件物件が客観的には昭和二十三年八月十九日物価庁告示第七百二十一号により価格の統制を受けている炭酸ソーダであることを立証する材料にすぎない。しかも原判決に掲げたその他の証拠とこれ等の証拠とを綜合して考へても、尚且被告人が本件物件を炭酸ソーダと認識して取引の斡旋をしたという事情はこれを認めるに甚だ困難であつて、却つて被告人はこれを炭酸ソーダにはあらざる洗濯ソーダと信じて取引斡旋をしたものであると認定せざるを得ない。
原判決は更に進んで、仮に被告人が本件物件を炭酸ソーダ乃至洗ソーダとは異る洗濯ソーダであつて価格統制のないものであると信じて取引の斡旋をしたとしても、それは法律の不知に過ぎないと説明を加えているのであるから、この点について考察するには、前記分析結果報告書(証第六号)を見れば、洗濯ソーダは科学的に云へば炭酸ソーダの水溶液から析出せられた結晶であつて、本件は正に学名炭酸ソーダであるところの洗濯ソーダに外ならないのであるが、このようなことは化学上の智識を有するものであつて始めて判り得ることであつて、普通の智識を以てしては却つて洗濯ソーダと炭酸ソーダとは別個のものであると思うのが一般である。このことは本件物件を買い受けた東清勝がこれを洗濯ソーダとして函館市役所を通じて函館家庭雑貨小売商業協同組合に売り渡し、同組合が正規の手続によりこれを一般市民に配給した際市役所当局者がこれについて価格統制の有無を官報その他について検討し、更に警察署の経済係員や検察庁にまで問ひ合せた結果、洗濯ソーダについては価格統制はないという結論に達したという事実によつても十分了解できることである。然らば被告人が本件を洗濯ソーダであると信じたことは即ち前記告示により価格統制を受けている炭酸ソーダ又は洗ソーダを取引斡旋するものであることの認識を欠いていることに帰着するのであつて、このような物品の化学的性質に関する錯誤は、その犯意を阻却するのと云はなければならない。
以上の理由により被告人は炭酸ソーダの取引を斡旋することの犯意はなかつたのであるから刑法第三十七条第一項本文により、被告人の行為は無罪であるに拘はらず原判決がこれを有罪と認定したのは事実の誤認があり、且つその誤認が判決に影響を及ぼすこと明らかな場合であるから、刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十二条によつて、原判決は破棄を免れないものであるから、当裁判所は同法第四百条但書により直に次の通り判決する。
本件公訴事実は本判決理由の冒頭に掲げたところと同旨であるが、先に説明した通りの理由によりその犯意の点について証明がないことになるから、刑事訴訟法第三百三十六条第四百四条により被告人に対し無罪の言渡をする。
(弁護人の控訴趣意)
一、原判決は「被告人田島寅吉はその親戚にあたる田島俊次からたのまれて同人が法定の除外事由がないのに営利の目的で昭和二十三年九月上旬頃北海道函館市湯の川町ニコニコ旅館に於て、東清勝に対し、炭酸ソーダ(洗ソーダ)を正味拾貫入参百五拾箱(壱万参千百弐拾五瓩)を所定の販売価格の統制額より金五拾五万七千八百拾弐円五拾銭を超過する代金八拾四万円で販売した際其頃同市で右取引の斡旋をして田島俊次の前示販売行為を容易ならしめ以て之が幇助したものである」との事実を認定し其証拠として(1)証人田島俊次の供述(2)経済調査庁に於ける田島寅吉第一回供述(3)同人の検察庁に於ける供述(4)経済調査庁に於ける東清勝の第四回供述調書の各壱部(5)送状(函館簡易裁判所昭和二十五年領第十六号の一)及倉庫原票(同号の二)(6)洗濯ソーダ分析結果報告の件と題する書面(同号の六)の分析の結果を綜合認定したるものなる処
前記(3)被告人の検察庁に於ける供述調書中の「炭酸ソーダ」云々の記載が「洗濯ソーダ」の誤記なることは之を除く他の証拠に徴し〔殊に証人田島俊次の証言証人後藤定呉の証言証人山口武の証言参照〕容易に首肯し得可く(5)送状及倉庫原票は荷送人日本化学興業より荷送人後藤定呉に宛てたるものにして被告人の干与したるものにあらず又(6)分析結果の如きは少くとも被告人の犯罪を肯定する証拠たる価値なきものなり。
然らば前記証拠を綜合するも被告人は「炭酸ソーダ」たる事を認識して本件取引の斡旋したる事実の証拠となり得るものにあらず是れ恰も枯芝を積み重ねたるとき枯芝の山(堆積)を形成するに過ぎずして他物となることなき理と等しかるべし却つて前述証拠(前記括弧内掲記のもの)を客観的合理的に読過検討せば前記証人等は本件物件を「洗濯ソーダ」と信じ且統制外の物品と確信の許に被告人に取引の斡旋を依頼し被告人も亦之を信じて其依頼を受け斡旋したる事実を看取し得べきのみならず本件物品の最終買受人たる相被告人函館家庭雑貨小売商業協同組合業務課長池田治郎作及同組合代表理事花光春之助等に於て官報を調査し、且函館市警察署経済係員、函館地方検察庁に対し電話にて照会する等詳細調査の結果本件洗濯ソーダは統制外の物品なりとの確信の許に買受之を函館市内全消費者に配給したるものなるを以て被告人も亦之を信じ今日に及びたるものにして同時に起訴せられたる前記相被告人等は其認識なきものなりとし無罪の判決を得たるに対し独り被告人のみ其認識ありとし有罪の判決ありたるは公平を失するのみならず被告人は其営業者にあらずして単に親族たる田島俊次の依頼あるにより之を黙するを得ず止むなくして斡旋するに至りたるものにして且同人は統制外の物品なりとの言を信じて事茲に出でたる次第にして被告人は化学者にもあらず之が業者にもあらず乃至如斯経験者にもあらざる以上其認識を欠くに付期待可能性の法理よりするも其原判決の認識は不当なるものなるを以て刑事訴訟法第三百八十二条同第三百九十七条により破棄の上無罪の判決相成るべきものと思考す。